クレアは、8月4日から5日にかけて、シドニーから道路距離で約320km西に位置するニューサウスウェールズ州カウラ市を訪問し、カウラ・ブレイクアウト75周年慰霊行事に出席しました。本年はカウラ・ブレイクアウトが発生してから75周年の節目の年であり、オーストラリア国内だけでなく、カウラ市の平和友好交流都市である上越市や福岡県などの地方自治体関係者をはじめ、日本からも大勢の関係者が参加しました。カウラ捕虜収容所に収容されていた元捕虜で現在唯一存命と言われている98歳の方もかつての仲間の慰霊のために日本から駆けつけました。
カウラ・ブレイクアウト75周年事業として、カウラの歴史を紹介するアプリの公開、世界平和の鐘セレモニー、ランタンパレードなど様々な事業が行われ、カウラ・ブレイクアウト発生から75年にあたる8月5日、捕虜収容所跡地、日本人戦没者等墓地及びオーストラリア人戦没者等墓地の三か所で犠牲者の慰霊のため献花が行われました。
カウラ市には、日本とオーストラリアが敵対国であった第二次世界大戦時に捕虜収容所が置かれていました。1944年8月5日の午前2時頃、収容されていた日本人捕虜の脱走事件(カウラ・ブレイクアウト)が発生し、231人の日本人捕虜と収容所の警備等を行っていた4人のオーストラリア衛兵が亡くなりました。カウラ・ブレイクアウトの犠牲者の墓地は、戦後しばらく放置されていましたが、これを不憫に思ったカウラ退役軍人会の方々が、かつての敵対国である日本に対する反日感情が社会に残る中にも関わらず、維持管理するようになりました。その後、在オーストラリア日本国大使館、カウラ市、オーストラリア連邦政府の協力のもと、第二次世界大戦時にオーストラリア国内で亡くなった日本人戦没者等を埋葬する日本人戦没者等墓地がカウラ市内の共同墓地の一角に整備され、適切に管理されるようになりました。現在、カウラ市内には、日本人戦没者等墓地に加え、捕虜収容所跡地、日本庭園、サクラアベニュー、世界平和の鐘等が整備され、今ではカウラ市は日本とオーストラリアの戦後和解と友好関係を象徴する街となっています。